2009年04月21日

私達の「掟」は美意識だったのだけれど・・・

 今日、日立製の冷蔵庫がエコな冷蔵庫と偽ってその実、エコを偽装して商品を販売していたとニュースで聞いた。何だか最近エコエコとこれみよがしに喧伝(けんでん)しているけれども、とても素振りばかりが鼻につく。私の家ではいつも曾祖母が「もったいない、もったいない。」と言っては百貨店の包装紙をたたんで残していた。おのずと小さい頃から何事ももったいないと物を大切にしてきた。

 当社も自然のように「もったいない、もったいない。」と多くのものを再利用している。別段そのことで「○○認定」だとか、「エコロジー企業」なんて謳う気はサラサラない。そのようなことは当たり前すぎて社員一同気にも止めない。台所用品や事務用品はほとんど人様が捨てるようなものをもらってきて使っている。会議用の机も椅子も、マッサージチェアもスチール家具も、果ては金庫、軽自動車にいたるまでいただきものだ。社員の作業着は胸の他社のネームをガムテープで隠して着用している。

 人間というものは、自分が善人だとか、当社は自然に優しいなんて声高に言えば言うほど、実はその逆であることの方がはるかに多い。
 
 擬装米で被害者然としていた美少年酒造も裏で汚い金を握っていたり、うなぎの産地を擬装したり、そんな事までして社会を維持・発展させたいのだろうか?いったいそんな社会に存在する意味があるのだろうか?

 漢字という日本人の言葉を検定して公益とは名ばかりの私欲を肥やす輩も居る。

 はっきり言おう。要するに金を握った者が偉い世の中で、その為なら手段は選ばない。国を治める官僚が我れ先に税金に群がっている。美しさのかけらも無い。

 砂漠で生まれた宗教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、「掟」によってその信者の在り様を規定している。一方、モンスーン気候に生まれた宗教である仏教や儒教、道教には砂漠のような絶対はなく、移り変わる無常がある。そのような宗教にはそこに生きる人々の「美学」が掟に替わる。

 それぞれの美意識に依るだけに、掟にように明確なものはない。それゆえに、一人一人の人間の確固とした自意識に頼ってきた。今日西洋の契約法の考えが入り込み、法に触れなければよい、契約を交わしてなければ約束は破ってもよい。そのような価値観の無い時代は、「武士に二言は無い。」と一度口にしたことを反故(ほご)にしたなら、それだけで腹を切る。それが武士道という美学というものだった。そのようにして美意識によって保たれてきたのが私達の日本だったとだけどうしても書きたかった。


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2009年04月11日

求めない・・・・

 昔から神童と呼ばれる子供が居ることが知られています。

モーツァルトは7歳で交響曲を作曲したと言われています。モーツァルトの曲には他の作曲家の曲よりも音に「ゆらぎ」が多く含まれており、仕事中のBGMには最適だと言われています。彼は曲が天から降ってくると自らの作曲を表現しています。

 同じようなことを奈良時代の仏師「運慶」も言っていたとのことです。彼ら、木を見るとその木の中に掘り出されるべき仏様が観える。ただその観えた仏様をこの世に現わしているだけだと言っています。

本を読んでいても、時折りこの本は「書かされているなあ」と感じさせられる著書に出逢うことがあります。事実「神との対話」という本などは、ある夜、手が勝手に動き出して書かされたとその著書の中ではっきりと断言しているのですから驚きです。

 私は神がかったり、勝手に何かを創り上げたりなどという大それたことは出来ませんが、最近、これは頭で考えたのではなく、ユングの言う「集合的無意識」の中から掘り出した「モノ」なんじゃないだろうかと感じるようになりました。

 いわゆる頭で考えた善悪というハウツー本が多くある中で、ハウツーではなく、魂のバイブレーションによる本物のメッセージのようなものということです。
 
 ただし、神の世界のことを書いているようで、頭で考えた損得の本もあるように感じます。結局のところ自分が感じ取る感覚だと言ってしまえばそれまでのことなのですが、でも、少し違うように思うのです。

 私の手元に六角形をした小さな金属の造作物があるのですが、その金属を水分が通過するだけで、水に何かの力が宿るというモノがあります。私はとにかくこれは何かあると直感しているのです。

 気功で人を活せる気功師と呼ばれる人が居ますが、そのような気の力を発する人ではない、でも同じような気を発する「モノ」だと思っています。

 先日知人におしえてもらった「求めない」という本も「何か」に通じている感じが伝わってきます。しかも遇然の必然というのでしょうか、この本の著者も私と同じく庵に一人で住み、老子の思想を探究しておられる点が実に似ているのです。
 
 その本のあとがきの抜粋をここに書きます。

 『一昨年の夏、とつぜん私の胸の中に「求めない―」ではじまる語群が次々と湧き出した―それは画室にいる時、林を歩く時、時には飯を作っている時にも出てきたのです。四ヶ月の間に求めないで始まる短句が150ほどと、短詩が13篇がノートに記されました。これは私の中に小爆弾が起きたのであり、こんなことは長い年月の文筆生活でもごく稀なことだ。』

 私はこの本を読んで、「何か」があると感じました。
学問や宗教、哲学は精神に入れる薬となるものです。本物の人に優しい薬ではなく、時としてその人の健康を逆に損ねる薬もあります。

 そのようなものがどうかを調べるテスト法に0リングテストというものがあるくらいです。

 求めることなく本来の自然な心で何事にも向き合うなら、必ず何かを感じることができるようになると言えます。「学びを捨てて学びを積む。」その学問姿勢の先にだけ本物がいつしか現われてくる。突然のように桜が満開になるように、その人の中に突然爆発のような衝動が湧き起こり、大悟するのだろう。
 
 最近何となくコツのような感覚が芽ばえてきたような気がする。

 でも多くの人が気づいているように思う。この「求めない」という本が発売後10ヶ月ですでに13刷を迎えていることがそれらを明らかにしているのではないだろうか。一読をお勧めします。


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2009年04月01日

「感動」の安売りが始まった

 イオングループとイトーヨーカドーグループがバーゲンでなく長期的な商品の大幅な価格の見直しを発表した。
原料安と円高の差益を価格に反映するらしい。世は安売りの時代に突入したようだ。

 そんな時代にモノの安売りは消費者にとってはありがたいけれども、実は私はあるコトの安売りをとても危惧している。それは「感動」の安売りです。

開高健は、おいしいという事を、おいしいという言葉や同義語を用いるのではなく、百万語を要しても、その感覚を文字で表現するのが作家であると言っていた。ところが昨今の本は、誰でも(私も書いているくらいだから・・・)書ける時代になり、それは多様な価値感が世に出るという反面、内容の薄いアマチュアな本も出るという弊害も起こっている。

 そんな中でよく見受ける文言が先の「感動」という文言です。
ひどい本になると、ほぼ1ページに一回のような感じで「私には○○に感動した。」が連発されている。

「果たして人はそんなに日常感動するのだろうか?」

感動とは、私は何か大きな驚きや気づきに出逢って、心が震え、それ以降行動や考え方が変わる(感じた後に動きがあるのだから)ことだと思っている。心が揺さぶられるレベルは、感激とか感服とか感心という言葉が適切なのではないでしょうか。

 同じ線上で友達の安売りも起きている。「○○さんはトモダチです。」とすぐに言う。

「じゃあ、その人はどんな人?」と聞けば、「会ったことない。」「え!」
会ったことなくてもトモダチになるのです。
「だって、チャットのトモダチなんだもん。」「え!」
それって知っている人レベル、つまり知人かそれ以下でしょ。

友達というのは、相手の内面の多様性を知った上で、お互い信頼(信用ではないことに注意)関係を築いた仲のことで、一生でも数人も居りゃ大したもんだのレベルでしょ。と、私は思う。

 中国などはもっとすごいですよ。
外省人(ワイレン)と内省人(ツーチーレン)と呼び、血縁の家族以外はほぼ外省人と思って良い。だから外省人は平気でだます。他人だからだまされる方が悪いという考え。

だから日本人が食べるギョーザに毒を入れてもさほど悪いと思ってないし、中国当局も外省人でも特に嫌いな日本人がどうなろうと知ったこっちゃないのです。

だから捜査も熱心にやらない。北朝鮮の政治もそういう見方をすればだいたいわかる。だから中国に進出した日本企業はかなり中国に痛めつけられている。

「え!主観が入りすぎですって?」じゃあ、先ほど血縁とわざわざ書きました。
気づいて下さい。嫁は外省人扱いなんですよ。中国には纏足(てんそく)という制度があったのをご存じですか?これは、少女が幼いうちに足に布を固く巻きつけて、足の発育を止める習慣です。こうしておくと歩けなくなり、子供産むだけの機械になるのです。

この纏足にはもうひとつ目的があって、嫁はあくまで血縁の無い外省人なのです。これは死ぬまでそのように扱われるのです。ところが家の内情や夫の性格をよく知っています。
そこで逃げて外に家の内部事情が漏れないための防衛手段でもあるのです。
これは昔の朝鮮も同じようなもので、嫁は子供を産む道具で、家畜のような扱いを受けていたのです。それであまりの虐待のひどさに耐えかねて、進駐して来た日本軍に慰安婦でも良いからこの境遇から助け出してくれと頼んで、志願して慰安婦になったのです。

モンゴルもそうです。
騎馬民族の結婚は略奪婚という形式で、他人の妻を奪って自分の嫁にするのです。ジンギス汗の最初の妻も一度は略奪されたのを取り戻しているのです。ですから第一子はジュチという名で、これは「疑わしき子」という意味です。

 日本人のように、血縁でない他人を信頼できる社会は世界では特殊なのです。知らない人はアジア人とひとくくりに言ったりしますが、日本及び日本民族はそれだけで一文化圏という考え方がヨーロッパの目では大勢な見方となっているのです。

 いったいこの素晴しき国「日本」はどこへ漂流しようとしているのだろうか?

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2009年03月31日

 男の魂は、孤独の美と楽しみについて敏感です。

女はそれを承知して、愛する者に惜しみなく自由を与え、
その間に自分自身も悠々と疲れを回復させて、
いつも新鮮さを保つべきなのです。

相手の自由を認めることは、自分にも自由と孤独の
時間が得られるということです。

 男の好みに全てをあわせては、両方の個性が弱められてしまいます。

「あの人は、何をしていてもいいの。たづなの端は、いつもあたしがしっかり握っているから」

こう言いきれるようになった女こそ、恋の真の意味の成功者です。


                         瀬戸内 寂聴


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2009年03月15日

派遣を切れば週刊紙が店頭から消える

 電車の中に読み終えた週刊紙が捨てられている。それはの週刊紙を集めて一冊50円で買い取ってもらって生活費を稼いでいた住所不定・無職という稼業の人が結構居た。

ここで「居た」と書いたのには訳がある。彼らはもうその稼業から足を洗った。なぜか?

「派遣切りの弱者を救え」と左翼政党やそれ系統の組織が声高に叫んで、住所のない人間まで生活保護を支給するように活動をしているからだ。「弱者の味方」とただ叫ぶだけで正義の味方を演じられる。

正義の味方は「エセ」もある。これらの生活保護の原資はまともに働いている人々の納めた税金だ。これに便乗して無職という極道まで生活保護の恩恵にあずかる。
「儲かざる者食うべからず」の掟が破られ、働く者が働かない特権階段に咲く搾取される世の中になった。

 左翼政党は言う。「本当に働きたくても不幸な弱者が居る」と。
そんな人間も居るだろうが、それは統系的な数字では示されない。統計学では無視してもよい統系上の数字というものがある。彼らの論理なら十万人、百万人に一人居たら居ることになる。そして無気力で怠惰な残りの圧倒的多数はそれに便乗する。これはまさにやくざにだって良い人は居ると言っているのに等しい。まさに国に寄生することを推し進めている。それにはいったい何のメリットがあるのか?

弱者からの票を取って自分達の議席数を伸ばしたいからだ。あとは弁護士を雇えない解雇者に付き添って企業へ出向き、企業から和解金を引き出しその一部を報酬としてもらう。しかし、本当に仕事もせず無気力な人材を雇い続ける体力など今の企業にはない。だから失業保険制度があるのだ。

 私は右翼ではない。一市民だ。本当に可哀想な人は助けてあげることも時には必要だろう。しかし、本当にその人を助けると言うことは、その人に自覚を芽ばえさせ、自立をうながすことであって、食を与えることではなかろう。

 正義の味方を振りかざしているうちに、まともに働こうとする人々の意欲がどんどん削られていって、いずれ一億総無気力になり、国ごと滅んでしまうかもしれない。

 大げさと笑われるかもしれないが、住所不定・無職の生活保護が認められる現実があるなら、私の危慎も決して紀憂とは言えないと思っている。

 常識なんてものは今やもう無いと言ってもよい。何がおこるかわからない全く先の読めない時代に突入した。世の中の若者に老婆心ながら告げるが、間違っても夢を追って起業なるものをしない方が良い。

もし起業するなら、人を使わないような事業にするべきだ。今の若者、今の国、今の制度の中で企業を経営するということは至難の技からほぼ不可能と言うようなレベルにまでやってきた。
 
 決して楽しくはないが、公務員か、自分だけでできるタレント業。
そんな生き方が賢い生き方だ。ただ、楽しいかどうかは別として・・・。

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肉食の「草食」さん

 「草食」と言うらしい。いやいや動物のことではない。いやいや動物の一種でもある。ベジタリアンというものでもないらしい。肉はちゃんと食べる。いやむしろ肉の方が野菜より好きだ。
にもかかわらず彼のことを「草食」と言う。

 若い男女が一つの部屋で一夜を過ごしても、狼になることなくすやすやと一晩ともに寝ることを「草食」と言うらしい。

どうして彼は狼にならないのだろうか?
理由がこれまたイカしている「疲れるから。」。今の世の中もはや何でもありですね。こんな男はいらないと女性からブーイングが出るのかと言うと、これまたそうでもないらしい。「?」しか出てこない。

女性が経済力をつけ、男なんて煩わしいものは無くても生きてゆけるから、寂しさを紛らわせるためにペットやおもちゃが欲しいそうだ。それにぴったりなのがこの草食君らしい。
本当に自然の摂理というものは不可思議だ。

 そんな男女でもごくまれにいわゆるそういうことに及ぶことでしょう。しかし草食君はそう簡単には興奮しない。そこで肉食さんは何とか興奮させるために大げさなあえぎ声をあげて誘惑する。
われわれの世代より上は、羊さんは必死で声を押し殺して我慢をする。そんな必死な我慢の中でふと漏れたかすかなあえぎ声がより一層の興奮を誘う。

 若い羊さんと一夜を伴にする肉食さんとしては、世代の違いからうるさいあえぎ声に逆に興ざめしてしまうと友人から聞いた。(・・・・ということにしておこう)

 いやはや、ほんの何十年の間でこれほどまでに種というものは進化(?)するものなのだろうか。あと百年後かには男性が生殖機能を失なうとNHKが特番を組んでいた。それは男性が、Y染色体を持っていて、そのY染色体は、どんどん世代交代をすることで劣化していっているらしい。今では不妊症は男性側に多く原因があるということだ。

 女性が男尊女卑の浮不平等な世の中から解放され、自由を得た代償にエクスタシーという何ものにも代え難いもの(と私達世代は思っている・・・)を失ったとしたなら、何と可愛想なか弱き乙女達よと思うのは、50代以降の枯れ線だけなのだろうか。

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2009年03月13日

専門都市化構想

 NHKの番組で、「沸騰都市」という番組がある。ドバイ、シンガポール、ダッカ、ロンドン、サンパウロなどなど、今、世界中で大きく揺れ動いている都市の特集です。

 もちろん東京もそのひとつです。東京という街は、その狭いエリア、特に丸の内、次に渋谷、そのエリアに日本の大企業が集積している。大企業相手に大きな事業をするなら、そのエリアにオフィスを構えると、実に効率が良いらしい。

ただ、土地が狭いので、上へ上へと伸びてゆかねばなりません。丸の内の大地主三菱地所は、ここ40年の間に全てオフィスビルを改装、あるいは建て替え、より多くの入居者を可能にする計画らしい。

 一方、虎ノ門の古い住宅街を森ビルが買収し高層ビルを建てるそうだ。古き良き街並みは大都会東京には残ることは許されない。

 そして、空中へ伸びたスペースも、飽和してきた次には地下へ伸びて行くらしい。まさに世界でもまれな高度集積地となる。経済と政治を任う東京は、東京という役目として、どんどん高度化していけばよいと思う。それが都市の個性となるのだから。

効率だけを極端に追求することは、効率を重視する人々とシンクロしてゆくだろう。一方で人間性や感性の部分は失われてゆく。だから5日間目一杯に動いて2日間ゴージャスに遊ぶ。いわゆるハレ(特別)とケ(日常)がはっきりとしている街になっていく。人は2日間を使って人間性を回帰するのだろう。

 関西にはない特徴として、有名店にできる行列がある。あれは私達の感性には無い。なぜなんだろう。たぶんハレとケを強く分けないからか、有名であるとか肩書きがあるということをそれほど重要視しないからなのか、自分へのこだわりが強いのか、いずれにしても並ばない。

 京都は、昔は政治の中心も任っていたけれども、明治以降は文化と伝統に特化することとなった。最近東京とは逆に、市内の建築物に高さ制限条例を制定した。これは長い目で見て正しい決断だと思う。日本は東京らしさという面と京都らしさという面があって初めて一枚のコインになる。

 京都は今では、日常の中や街並みの中に少しづつハレが散らばっている街になった。懐かしい街並みや静けさなど、形にないぜいたくがあちこちにある。オシャレな喫茶店の数が、街の広さに対してとても多い。そんなお店の椅子に腰をかけてしばしの豊かな時間を過ごす。

これは日常の中にあるハレの時間と言えるでしょう。私の事務所も大正時代の建物で、庭を見ながら商談・接客をする。仕事という日常に坪庭というハレが秘んでいる。

 京都という街で仕事をしても、実に儲からない。私の商いのセンスが悪いのかもしれないけれど、多くは東京でビジネスをするよりは儲からない。だから持ち金が少ない。

でもその少ない持ち金でも実に実に豊かな日常が過ごせる。事務所から車で15分の所に書斎もあり、そこも庭を見ながら考え事ができる。工夫ができる数奇者な人には実に楽しく豊かな街なのです。東京からもそんな京都に触れに多くの人々がやって来る。そして人間性を回復して帰って行く。感性がシンクロする街、京都と呼べるかもしれない。
都市同志が役割分担をしている。

 人間も都市も、これからは個性化の時代となるのだろう。「何でもあるは何にもない。」と言うように、総合スーパーの時代は去り、専門店の時代がやって来た。

 都市も街起こしレベルで行政が考えるのではなく、都市の個性を含めたリストラまでを視野に入れゆかないと、根本的な解決にはならないだろう。

 これからは、点の改革ではなく、面の総合改革を一つのコンセプトに沿って進めてゆく時代がやってきた。

知事のリーダーシップで勝ち組みと負け組みが生まれる時代になってきた。できれば、優秀なデザイナーや企業家が行政のトップになって引っ張っていった方がその街のためにはなると思っているのは私だけなのだろうか。


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偶然の一致は必然の一致

 小沢民主党代表の公設第一秘書逮捕が今世間の注目を浴びている。
私には「何かが臭う。」

私はこういう自分の感覚を大切にしている。これは若手の切れ者と世間では言われる秀才の才能の対極にある野性の勘というものによる。

 具体的な名前で示そう。前者に該当するのが三木武夫、宮澤喜一、橋本龍太郎、後者に該当するのが、佐藤栄作、田中角栄、小沢一郎と言えると思う。

 かく言う私はどっぷり後者の方だ。だからこそ日々こつこつ努力して本を読む。私は秀才では全くなかったから、人より時間をかけて才を磨かなければならない。

 もともと政治とは町人である我々とは別次元で行われていた歴史の方が長い。その中で育まれてきた将たる者を生み出す方法や理論というものがある。

 たった一言で言うなら、倫理や素行よりも、(必要ないと言っているのではないことをご承知おきいただきたい)きれい事で言うなら世のため、国のためにどのような結果を残したかという結果が問われる。わかり易い例で言えば北朝鮮の全正日である。
毎日酒地肉林のパーティーを繰り広げていながらも、100%の将軍様なのだ。

中国だってそうだ。毛沢東の好色は有名だ。その点はまだ大陸の方がその傾向が強い。

 ところが、何かの流れで、民主主義なるものが導入され、主権がお上や殿様から、民衆に主権があるということになった。制度は確かにそうなったからと言って、突然民衆が政治に明るくなって国の方向を決められるようになるとはまた話が別だ。

事実上は、民の意を汲んでいる振りをしながら、結果責任として政治を全うしようとする大矛盾に直面することになった。戦後すぐはまだ古い考えで政治を動かせたが、時に「ある誰か?」の思惑で、後者の理屈を突然持ち出して疑獄事件を暴き出し、「ある誰か?」に都合の悪い人間を葬り去ってきた。ある時は暗黙の了解で見逃しながら、ある時はスッパ抜くという危うい関係が生まれた。

 小沢一郎という男は、早くして死んだ愛する長男をそこに見た田中角栄が息子のように育てた政治家だ。

話は少しそれるが、今の麻生首相の祖父である吉田茂内閣の時に官房長官に47歳の佐藤栄作を起用した。そしてその佐藤栄作内閣の時に田中角栄を幹事長に抜擢した。そして、田中がロッキード事件で政界を退き、その後を継いだ竹下登は、田中と同じ佐藤栄作内閣の時、47歳で官房長官になっている。

そして、竹下がリクルート事件で退陣し、海部俊樹を裏で糸を引いて首相に就任させた時の海部内閣の幹事長が他ならぬ47歳の小沢一郎であった。偶然47歳。

小沢は総理になる必須のポストとしての幹事長を始め、全国の自治体と警察機構を管理・統括する自治大臣、国家公安委員長も歴任し、地味ながら、バリバリの保守本流の英才教育を受けてきた。そんな彼は、何もかも知っているがゆえに、慎重に慎重に行動してきた。

 だからこそ、今回の秘書の逮捕は寝耳に水で、彼の常識ではあり得ないことなのだ。先輩、特にオヤジ田中角栄が、日中国交正常化を、アメリカを飛び越して独断でやった見せしめに、ロッキード事件を暴露され、葬られた。

田中のことを面白く思わない自民党の重鎮がアメリカ政府とつるんで田中をはめた。本来、アメリカ政府の意向を汲んだロッキードの旅客機導入であるから、アメリカから爆弾が投げられるのは反則なのだ。田中の長女の田中真紀子と小沢が仲が良いのもこの時の事件も伏線にあろう。

 私は、「何かが臭う。」ただ、私は政治には全く素人だ。
少しだけ縁あって若手の政治家の集まりに籍を置いたこともあったが、「政治を知らない素人が何を偉そうに。」と影で言われたくらいの素人だ。だからこうして気楽に自分だけの頭で推理をしている。

 私がひっかかるのは、この小沢秘書逮捕に先立ついくつかの動きだ。それは正に田中角栄とその愛弟子小沢一郎との因縁とも言えよう。偶然の一致である。

その出来事は、まずクリントン長官が、来日の際に小沢民主党党主との会談を日程に入れたことだ。
これは異例中の異例なことだ。少なくとも現在の与党は自民党であり、首相は麻生である。いくら人気がないとは言え、表向き形式を重んずる国家間の外交ならこのようなあからさまなことはおかしい。しかも小沢は一度は会談を辞退している。通常は小沢がアメリカを訪問し、次期政権を使うかもしれない立場で話しをしに行くのが筋というものだ。しかも、そんな明白な筋違いを自民党の連中からはほとんど批難の声は出なかった。これはおかしい。

本来喜んで会談すべき小沢の方が辞退している。
さほどの意味があるようにも見えず、大した外交成果もないように見える訪米だが、私はこの時に、次期政権を小沢か麻生どちらをパートナーとアメリカが認めるかの密約が取り交されたと思う。

そして今回の検察の小沢第一秘書の逮捕。検察が時の権力から独立して行動するなど真っ赤なウソだ。造船疑獄以降、必ず「誰か?」の思惑で動いてきたのは明白だ。マスコミなどと言うウソツキ権力に惑わされたら真実を見誤まる。ただ彼らは映像とペンと、机上の理想に生きるインテリによって表向ききれいに着飾ることを忘れないから、政治家よりはるかにたちが悪い。

 田中角栄と同じく小沢もアメリカという外圧の前に政界から葬り去られるのであろう。理由は私にはわからない。
ひょっとして、田中と同じくアメリカを飛び越して中国との関係を深めようとしたからかもしれない。あるいは麻生が何かアメリカに売り渡したからかもしれない。ただ何かあるだろうことは私は感じている。

 恐らく小沢も政界から事実上葬られるであろう。そして最後の古き政治家が、日本の政治の世界から居なくなるであろう。これも時代の流れだ。そして何もできない理想だけのさわやか政治家が日本を漂流させてゆくだろう。

 私はそれが日本にとって良い事だとも悪い事だとも思わない。民衆とは実にわがままだと思う。

 立派に国を栄えさせるリーダーを望みながら、一方できれい事を求める。この利と欲の渦巻く世の中を引っ張って行くリーダーに潔癖を求めるという矛盾を平気で叫ぶ。

それが私達の民主主義だ。それで良い。民衆に主権を認めることも歴史の流れの必然なら、その民主主義で選んだ結果がどうであれ、受け入れるのも私達国民の党格なのだから。ただ、あれこれ希望を叫びながら、あまりにその結果に対して不満を言いすぎるものわかりの悪い国民であることは確かなようだ。


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2009年03月09日

うま口な人生

 毎日、毎日本を読み、哲学し、内観し、50歳にもなりちょっとは落ち着いた大人になれたんじゃないかなあ。
特にコラムを書いている今のような静かな時間にはそう思える。

 そして、成長した自分を楽しみにして一歩現実世界に出かけて行くと、品のかけらも増えていないし、一呼吸置かずにブチッと切れる。いったいあの観念は何だったんだろうか。
あんな観念が湧き上がってくるから、より落胆は厳しいものとなる。

 そんな自己謙悪の中で、昔の開高健のビデオを観た。
以下は彼の台詞の要訳です。

 「日本酒には、辛口か甘口か、どちらかで分けられる。しかし、灘のいわゆる酒の玄人と呼ばれる人は、秘かにうま口の酒こそ最上であると言う。

若い酒は腰はあるが青臭さが残る。古い酒は芳醇で香りが高いが腰がない。ブレンダーはこの両方をほどよく混ぜて味わい深いブレンドウィスキーを創る。
このうま口の酒の味がわかる男になるにはどうするか。30代からのべつまくなし二日酔いに明け暮れる。そうして50代くらいになってようやく自分の舌でうま口の味がわかるようになる。

 このうま口のわかる男になるには修行がいるということだ。

人生も同じだ。とにかく30代は前後の見さかいもなく、思ったこと、感じたとうりに無茶苦茶走れ。
走って走って走って、50代くらいになって、やっと人生の妙味というものがわかるようになる。

30代を振り返ったらよくもそんなとんでもないことをしていたと自分ながらあきれる。その年にならなければ、森や川や海の大自然の奥深さなどは理解できない。
ここからが人生の一番ん美味しい季節になる。」

 引っ込み思案や腰ぬけは、辛口だの甘口だのどこかの評論家の受け売りで酒のうんちくを語る。ワインのうんちくを語る。
うま口だけは自分の味覚だけで探さなければならない。人それぞれにこれぞうま口と言えるものは異なるのだから。ただ、うま口を熱く語れるという事一点において同志なのだ。

 50代を迎えて、また30代の青臭さのぬけない自分が情けない。恵美須顔の友人に愚痴をこぼしたら、彼の返答は以外なものだった。

「俺はその年で切れて突っぱれるあんたが羨ましい。俺なんか、ずっと、寸止めのようなあと一歩のところで止めてしまう。行き切ったことがない。」と言う。

「人は何かを失えば、必ず見えない裏で何かを得ていってる。逆に何かを得れば、何かを失っている。ただ気づいていないことが多いだけだ。だから何かを得ようと思えば、必ず何かを捨てなければならない。」これも開高健は言っている。西田哲学でもある。

 私ももう一段上があると思っている。天がその者に白羽の矢を立てて何か天命を与えようと決めた時は、とてもその人間にとって重要な「何か」を強引に捨てさせようとする。
明らかに物理的な力と感じられるようなもので。

これはかなり厳しい。最初は意味が全く理解できない。
そしてしばらくするとその目論見らしいものに気づき始め、逃れようと悪あがきをする。そしてとうとうあきらめて従うこととなる。

 ただ、冷静になって立ち止まると、失うものばかりに気を取られているが、得ているものに気づき始める。それはまんざら悪いものでもないことに気づく。

 私はまだ50代で甘口だの辛口だのと言っている。まさに30代真っ最中。
自分の成長をなげくより、平均寿命が伸びていることに希望を持とう。

50代から70代までは無茶苦茶突走ろう。
70歳くらいになったら、ちょっとはうま口な男になれているかもしれないと希望を持って。

 人生は生きてみなけりゃわからない。人生は、最後の最後まで何があるかわからない。
だからあきらめないで最後まで気をぬかずに生き切らなければならない。


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Don't be afraid !

先日、「ベンジャミン・バトン゛-数奇な人生」という映画を観た。

正直あまり観たいと思わなかった。というも、主人公が生まれた時が老人で、その子がだんだん若返って、最後は赤ん坊になって死ぬという設定にリアリティーを感じられなかったからだ。

おそらく大人のファンタジーだろうと思っていた。にもかかわらず、上映時間の都合で、この映画を観るはめになった。

 ところが、私はこの映画の冒頭で、この作品は、リアリティーでもファンタジーでもなく、フィロリフィーだということに気づいた。それは映画の初めの方でも語られている。

 「どんな人間でも、たった一人で何も持たずに死ぬ。その誰にとっても同じゴールに向かって生きてゆくのが人生。そのゴールまでの道のりが人それぞれに違うだけだ。」と。

改めて突きつけられると、「わかっています。」と答えてしまいがちな命題なのに、実は日常生活に追われ見失っていることが多い。

 それを、有り得ないようなストーリー設定をすることで、より強くこのメッセージを届けようという作者の意図であり、「どんな人生を生きても最後は同じ所へ行くのだから、何も心配せずにあなたらしく生きなさい。」と言う励ましでもある。

 最近のハリウッド映画は、金融危機あたりを境に、拝金主義に対する反省と、人生の尊さを謳いあげる映画が目立って増えてきている。その流れの中で「おくりびと」はジャストな幸運だったとも言える。昨年度の出品だったら、審査員は選んでいなかったように思う。

 ベンジャミン・バトンのような数奇な例を探さなくとも、よくよく考えてみれば、動物や昆虫や植物でさえ何年後かに地球ごと破滅するにもかか割らず、同じ地球上で人間から見ると不可思議というか数奇というか、生態をくり返している。

 癌細胞も宿主が死ぬまで成長し続け一緒に死んでゆく。
どうせ死ぬならそんなに増殖せずに共生すればいいのに、死へ向かって一直線に走る。
癌も私たちからすると数奇なヤツだ。

 しかし、人間そのものが地球上の生命からすると最も数奇なのかもしれない。

 そう考えるなら、実はどんな人であっても普通とは言わないにしろ、数奇ではない。ただ、あなたらしいということだ。

 ならば、ならばですよ、自分の人生に起こる困難は全てあなたらしく生き切る人生の全ての糧であり、真正面に向き合うことが最もおいしい生き方と言えよう。

 どんな生き方をしても、どんな恵まれた人生も、万人等しく同じゴールのテープを同じように切る。

 「Don't be afraid !」 「You are a lucky guy.」


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