2008年04月29日
「かもしれん」は「南無阿弥陀仏」を超えるかもしれん
久し振りに映画を観に行った。最近少し忙しくなってきて、めっきり映画に行く機会が無かった。題名は「ネクスト」というもので、自分に関する未来だけは2分先まで見えるという男の物語だ。詳細な内容は置くとして、その主人公が言ったセリフが私にはとても示唆に富んだもので、正直ハッとさせられた。
「僕には見える未来が、その時々で変化する。何故なら、未来とは、それが見えた時点での未来であって、時が進めば、その進んだ間に行った事が未来に影響を与え、次の時点でそこから見える未来に変わる」というセリフだ。正に運命は自らの努力で変えられるという事を示している。
一般に振興宗教の教祖とか霊感のあるような人は、神が降りて来て未来が見えたとか、啓示があったと言う事がある。私はそういう事って確かにあると思う。その時は、その時点ではっきりと見えた未来だと思う。問題なのは、そこからであって、そういう人の多くは、その見えた世界をずっと変わらない不変の真実のように信じ込んで、その後の人生や未来を決める人がいる。
しかし、私は、そのような未来になる事もあれば、そうならない未来もあると思う。つまり、その未来が見えた時点の私がとても正直で素直で純粋でも、その後知らず知らずの間に怠けたり、自分がきちんとしていても、社会の集合的無意識の方に変化が起これば、その後の未来は変化する。世の中には霊感や霊能者等を過度に絶対視する人が多いが、それは私は考える智恵の放棄だと思っている。
世の中は勝ちと負けのどちらかというような単純なものでは無く、勝ちもあれば負けもある。引き分けもあれば、一部勝ち、一部負け、最後はどちらとも引き分けとも何とも判断出来無い神かがりもあれば、負けるが勝ちもある。そんな複雑な世の中では、信じながらも信じない。熱心に学びながらも学んだものを捨て去る。人事をつくすが天に委ねる。親密になり過ぎないが、疎遠にもならない。等々、西田哲学の「絶対予盾的自己同一」を地でゆく事が智恵だと言って来た。
ところがこのように書くととても難しく感じられるので、私は誰でも実践できる、複雑な世の中を生きる智恵として宗教を提唱している。と言っても、ごくごく身近な人にしか布教をしていないので、殆どの人は知らない。私が教祖で、現在信者は私だけかも?その宗教の名は、じゃじゃ~ん「かもしれん教」と言う。どうです、このありがたい響き。
何度唱えても美しい響き「かもしれん」。「か~もしれん、かもしれん」とただ唱えるだけで、心の中から執着が剥がれて、清々しい気持ちになる。未来が変化するそれを適確に捉えた言葉「かもしれん」。
宝くじに例えて説明すると、殆どの人は宝くじは当たらないと思っている。それは正しい考えだと思う。事実私は宝くじは当たらないと信じているし、だから宝くじは買わない。しかし、もし、1枚でも宝くじを買ったとすると、ひょっとしてひょっとして当たるかもしれん。私は絶対当たらないが、少しでも買った時点で当くじは当たるかもしれんものとなる。
同じように、人生でも努力をしたからと言って報われるとは思っていない。むしろ正直者がバカを見る事の方が多いかも知れない。しかし、努力をした人だけが、素晴らしい未来を掴むかもしれん。努力をする人だけ権利が与えられる。権利は与えられても結果が与えられた事にはならないけれど。しかしこれだけは絶対言える。自助努力をしない人にだけは、絶対に素晴らしい未来は与えられない。
松下幸之助先生は「人事をつくして天命を待つ」とおっしゃったが、ちょっと前時代的な感じで固く感じる。
さぁ、もっと分かりやすく、それでいて凄まじい効果を発揮する魔法の言葉、「か~もしれん、かもしれん」。はい、もう一度「か~もしれん、かもしれん」。このお経を我がものにするなら、あなたの未来は絶妙な自力と他力のバランスの上に最高の結果を生み出す事、間違いない、か・も・し・れ・ん。
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